昭和52年7月19日朝の御理解



ご理解第19節 金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。

私共が、金光大神様を唱えるそなえる通りに金光大神がお働きが運が訪れる働きが始まる。いかに始まっても,それを感じきらなかったら金光様というところに金光様は来てくださる。聞いてくださる。それは、あの~生神金光様だからお出来になるのであり、それは天地と言うならば御一体であるからお出来になることであります。金光大神に るところに金光大神形がのうなったら来てくれというところへ行ってやるおおせられるようにそこに金光大神が来てくださる御取次ぎの働きが始まる。だからそれを実感できれる信心にならなきゃ。それが実感できれるおかげを頂いて始めて事実の上にもおかげが頂けるのです。言うなら空念仏的金光様ではならんと言うのです。生神金光様、例えば今日はおしめりがかかっておる。なんとも言えんおしめりのことを聞かせて頂きながら、金光様~とこう唱えさせて頂くともう本当にどこから湧いてくるか分からん喜びが湧いてくる。金光大神の働きを頂けねば、あたくしどもはそのおかげをキャッチすることはできない。本当の限りないそのおかげを感じさ有り難いと思う。その有り難いと思う心がいよいよあたくしどもに喜び、安心を与えてくれる。(ななこえはあめだけほどでは?)あるまい、御比礼の(ことっとき?)だって、またはあ~陰の時だって同じことである。あたくしどもが、金光大神(  ?  )に金光大神の働きが感じられるというおかげを頂く事が金光教の信心者のまぁ言うなら特権でもあると同時にそこまで頂かなければ、ただ金光様、金光様と空念仏的に唱えておるだけではつまらん。唱えるところに即そこにおかげが感じられる金光様でなからなければいけない。昨夜、お祭りがすんでから(かほですねあちらこたて?)の方からお参りになられた。昨日は、5~6人お参りになっとりました。その中に始めてお参りました。信心が頂いて参って来た方が、え~大変体格が良くて顔色も(悪う?)なかったら健康そのもののようにしておられるけれども、実はまぁああゆうのが(やみぶくろ?)と言うのであろう。いつも病気をしておられる。しかも、ん~その事があ~次々と色んな病気に大きな手術を何回も何回もしたと言っておられる。ですからもう日々が不安で不安でたまらないというようなお届けでした。で、そのことを共励殿で、でしたからお届けさせて頂きましたら、え~ん~財布ですね(カイジュウ?)と申します。財布のお~まぁそれも何か(おしゃれ??)な感じのね(レザーかなんかでくるったような)(    ?  )ん~おかげで例えば(   ?   )がすんで帰ってくる、おかげでその病気は治る。本当に健康ということは有り難いなぁ~と、まぁその時は信心がなかってもやっぱり思うだろう。病気の(暮らしは)病気病院(  ?  )思うたら本当に退院のおかげを頂いて、まぁ(  ?  )を頂いて帰って来るんですから、本当に健康ちゃなんちゃ有り難いことじゃろうか~我が身の教えはなんちゃ有り難いことじゃろか~とまぁ信心がなかっても思うだろう。信心者はそこからが違うんです。(  ?  )貧乏していなければ言うならば貧乏のいわばお金の貴さ有り難さが分からないように、(   ?   )してみて健康の有り難さが分かる。いや、その有り難さを分からせて頂く為に、なら貧乏もあれば病気もある。ああゆう災難、難儀というものがそうだというふうに(  ?  )だから、そのこと事態を神愛だと言えるわけなのです。ところが、あたくしどもは(    ?    )本当にここにおかげがこれだけあったら、本当に助かる、お願いをする、ほ~おかげで満足おくりあわせを頂いた。少し(  ?  )ができると、もう忙しいしてお参りが出来けんとなったり、そしてまぁいらんもん買うたり、ん~言うならばおかげの有り難さが段々なくなってくる。これではね、やはり神様が本当のおかげはいつまでたっても下さらん。私は、例えば今毎日10万、15万あたくしが今なら、あ~何か自分の必要な物を買いたいと思うてえ~買わせて頂いても、誰も文句言うものはおらん。けれどもあたくしは、自分の物というものは10円のものでも買わん。あたくしが今え~ここは皆給料制になっていますから、え~給料はこれは十何万かぐらいですけれども、なここの御下がりを全部をですよ、あたくしがつこうてもなら誰も本部からでも教所からでもそれを言うてくることができない。それはあたくしの言うならまぁある意味では(きんきん?)かもしれません。え~けれどもあたくしは10円の中にでもまずは、使わない事にしている。(  ?  )のときぐらいは、使いはしましょうけれども、まずは使わないのです。それでなら、大坪総一郎にはどれだけお金を持たしても無駄遣いのするようなこつはないっと神様が御信用になるからおかげを下さる。わたくしは、その話を昨日その方にさせて頂いた。だからあなたもね、健康を今度頂いたらこの健康をおそまつにするようなことはしません。ね、頂いとる健康の有り難さが分かったら、その有り難さを(噛締めて?)日々の生活の上にそれを現して(おいで?)なからなければいけない。今日からあなたも(懐中?)にね、言うならば金光様という金の鈴のようなものを付けて差し上げる事です。だからね、例えば人間ですからいつ落とすようなことがあるとも限らない。その時には、ね、金の鈴を付けて金光様の金の字を付けておるから、ちゃんと足元に音がする。あっ神様が教えておった。うかついしておった。そこに、また(懐中?)または自分の(懐中?)をすることが出来る。今夜からね、いわゆるあの~お~(鈴?)の付いた財布を入れ(快調?)させて頂くつもりで、おかげを頂いたらあの~多分(快調?)お腹の中の色んな病気があると言われる。ね、もうおかげを頂く事間違いなし。ね、けれどもあなたがね、おかげを頂いてもまた落とすような事をする。また忘れてしまう。健康が有り難さをあれほどに、有り難いと思うておったのに、ね、(のどをみとればあつさを?)忘れてしまうというようなことであったら、おかげは受けられぬ。ね、これは健康だけのことではない。経済面の上においてもそうなんです。あんとき難儀をして(         ?        )ということを忘れずに、ね、自分から求めて楽をしようというような気持ちは起こさんぞという気持ち。もちろん、な、信心金光様の信心しよれりゃ、そんな楽も出来んかっというようなことは決してない。神様がさせて下さる楽を合掌して受けていけばいいのです。なら私どもが言うならばお芝居が大変好きです。けれども自分から自分で金出して、お芝居までへ行こうとはサラサラ思わない。ね、なら御信者さんがあ~(東京家族?)に今から行きます。切符をどうぞ(   ?   )行かれる方の分までこうやって、準備を致しました。(  ?  )も持って参りました。お弁当もちゃんと(   ?   )ます。と言うような条件が足ろわなければ私は動かん。ね、こうなんかは私がするのではない。させて頂くのですから、その有り難さと言うのはまた一入。誰の芝居観賞よりも素晴らしい観賞が出きると同時に、その有り難さがまた一入で始る。ね、今日は(?)芝居なっと見に行こうかと、言うようなことをせんと決めても、私信心はねこの辺の節度がきちんと出きるようにならないけんと思うのです。でないと限りないおかげにつながらんです。そんとき、そんときにまた(ややや ?)とお願いせんなならんです。ね、金光様~と唱えると同時に金光様が来て下さる。お取次ぎの働きをして下さる。ね、そしてそのような働きにが続く働きをして下さるのです。それをまぁ私どもの場合は、その時その時何か(足らんごと)なったときだけ金光様~と言う。なるほど来ては下さろうけれども、ね、天地の働きをそのままに現して下さる。限りないおかげにつながる働きをそれでは神様も現しようがあるなさらるまいと私は思う。先日ここから学院に6名行っとります。(一番に  ?  )であります、ん~(植田?)さんが手紙をよこしとる中に始めてお薬で一生懸命御記念させて頂いとりましたら、ご信心、楽の時も姿勢を崩さねば大きくなるっとお言葉を頂いております。楽な時も姿勢を崩さなねれば大きくなる。なら私が何百万、何千万の風にここに財産をたくさん持っておっても、だからもうお金には(金神?)さえおかげをしないと言う言うならば楽なおかげを頂いっとても、また頂いておりますけれども、ね、苦しかった時の姿勢を(工夫?)してないということになるんじゃないでしょうか。ね、それこそ10円の金でも割って使うような心もち。健康に例えますとね、楽な時も姿勢を崩さねば大きくなると言うことは限りないおかげを頂けるという事なのです。ね、不思議です。素晴らしい言うならばあ~景色を願うな、それこそ天然の美ではないですけれども、それこそ空にさえずる鳥の声、(耳より移る?)滝の音、大波小波(どうどうどう?)というような天然の美という歌がありますが、そういう素晴らしいとこだけをみると、信心がない者でも(あいうえお?)の感動がおこってまいります。ね、大自然の働きは素晴らしいなぁ~とたたえます。ね、またうっとりするほどにその(  ? )の中に溶け込める、これは信心がなくてもそうなんです。だから、信心があるものはです、言うなら金光様~と唱える時にそれとは反対なことを雨でも風でも自分の(  ? )に降ってくる、普通で言うならさまざまな難儀な問題でも、それを天地自然の神様のお働きであるという時にです、ね、有り難いなぁ~神様がこんなにして、(感動)きたえてくださる。神様がこんなにしてまで本当のことを分からせて下さるんだ~。と分かりますがね、そのことに言うならば天然の素晴らしい言うなら(   ?   )にうっとりするほどの有り難さを感動すると同様にね、どうゆう難儀の中にあってもそれこそ、今のその苦しみをうっとりと忘れてしまうほどしの有り難さが心の中に浮き出してくる。ね、金光様~そこに唱えるからでしょう。いや金光様がいつも私の心の中に入っておって下さるからでしょう。そこにはどんな楽な時にもだから姿勢を崩さんですむ私を分かるとです。私はね、金光様の信心者が誰しも金光様を唱えます。けれどもそれが空念仏的な金光様がおいるのではないだろうか。それには、やはりいつもが心に心臓がのせとかなければなりません。金光様、唱えるところに即そこに金光様のお取次の働きが始まる。私はいつも思うんですけれども、じゃあこの有り難さと言うものは自分の信心によって頂けた有り難さではない。自分の信心によって金光様を身近にしかも有り難く空念仏的ではない、真実金光様のおかげというものをその内容に持って、金光様~と唱える。だから金光様のおかげでこの有り難さというものは頂けれるんだと思うのです。自分で有り難く思えるとするなら、ならいつでも有難うなるのなら、金光様を通す働きによってこの有り難さというものは頂けるのです。ね、頂いてもそれをだからキャッチ出来るれる心というものがですね、言うならば楽はせんぞっと言ったような心、楽な時の姿勢を崩さねば、大きくなる。そういう言うならば神の教えがいつも自分の心の中にある。いつも健康のおかげを頂いて、いつもお金に不自由するようなことのないおかげを頂いて、いつも自分の心の中に和らいだものがあって、自分の周辺に言うならば和らいだ雰囲気が生まれてくるほどしのおかげを金光様の言うならば金光様~と唱えるところに金光大神様は来て下さるのですから、せっかく来て下さるなら、痛いかゆいを願う金光様ではなくて、そうゆうおかげを頂いてお礼の申し上げれるような、(言わば?)金光様を(  ?  )を頂きたいと言う精進。そこには健康を約束され、ね、言うなら経済に不自由することのない家庭に不安な(  ?  )とおおせられる、その( ? )も頂けくことが出来る。そういう有り難い心でお役に立ちたいという一念をいよいよ燃やすから、いよいよおかげにならないはずがない。本当に大きな信心とは私は天地の親神様の手足になることだと。こんな大きな信心はありません。ね、いよいよ言うならば金光様のお取次ぎを頂いて、天地金乃神様の手にも足にもなれるごとしの大きな信心をいよいよ身に付けていきたいと思うですね。どうぞ。